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宫崎骏东京记者会答记者问实录

作者:佚名  来源:新浪   更新:2013-9-11 6:49:24  点击:  切换到繁體中文

 

紧紧握手的宫崎骏(右)和铃木敏夫


紧紧握手的宫崎骏(右)和铃木敏夫


新浪娱乐讯 据日本媒体报道,本月6日下午72岁高领的日本动画界泰山北斗宫崎骏,在东京某酒店召开了引退记者会,一同出席的还有64岁的制片人铃木敏夫。


开场发言:


宫崎骏:把“引退致辞”已经发给了诸位,会详尽回答各种提问。一句话,却多次引发骚动,或许会让人怀疑又来了,但这次是认真的。


铃木敏夫:有开始就会有结束。我的立场而言,因失败而退休很恶心,所以选在了《起风了》上映并得到支持的时候。这样会比较好不是吗。今后会怎么样呢,相信会有这样的疑问。正如大家所知,计划11月23日上映的高畑勋导演的《辉夜姬物语》必须公映。暂时还不能发表接下来会有什么其它计划,不过可以告诉大家目前正在制作计划在明年夏天上映的电影。


当天到场的记者约有600人之众,除了日本国内以外,还有13个国家和地区的海外媒体人士,可见宫崎骏作品在世界范围内的影响之广。并且记者会总时间长度,达到了1小时40分左右,远远超过了预期。


正如宫崎骏在致辞中所表达的,自己年事已高,今后虽然不再做动画长片,但也考虑办美术展等工作,总而言之还会再战十年,无论如何,让我们一起祝福这位影响了许多人的童年甚至是现在的动画巨匠吧。


宫崎骏记者回答记者问(主要)


Q:请对孩子们说几句。


宫崎骏:如果有机会,看看我们的电影,或许能接收到什么信息。


Q:引退之后想做什么吗。


宫崎骏:正如致辞上所写“我自由了”,也有了不做的自由。只要能开车就会每天去工作室,做些想做的事情。但是如果就这样约定什么,之后可能会爽约,所以不能说。请大家理解。


Q:计划制作《风之谷》的续集吗。


宫崎骏:不会。


Q:请对韩国粉丝说句话。


宫崎骏:只是看电影就能理解,所以并没有因为语言产生障碍,这次的电影也看看吧。很感谢来自各国的诸位。《起风了》描写的是日本军国主义走向破灭,对于各种各样的疑问,要怎样去回答呢,就是这样而制作的电影。看了电影就会明白了,因此希望大家掏钱去看看电影吧。


Q:有关今后吉卜力的电影。


宫崎骏:没有。


Q:这次和以往的引退宣言有什么不同吗?


宫崎骏:《起风了》距离《悬崖上的金鱼姬》已经五年了。这期间创作剧本、描绘漫画、制作吉卜力美术馆的电影短片,用了5年。开始考虑接下来的作品,5年时间不够了对吧。那么下一部作品要6年还是7年呢,再有3个月我就73岁了,然后再过7年就是80岁。之前和作家半藤利一先生见面聊天,已经83岁高龄的他依然背脊挺直,是一位好前辈。还想再工作10年,但并不想延续目前为止的工作。我的动画长片时代结束了,想要做的也成了“老人的迷惑”。


Q:决定引退的时机?


宫崎骏:跟铃木先生说“已经不行了”,回我“是吗”。成立吉卜力的时候,确实没有想过会工作这么久,辞了很多次,却依然在继续……这次是真的产生了一种“下次可能要花7年了”的现实感。


铃木敏夫:我也记不太准确了,《起风了》的初版试映是6月,宫崎先生说的确到现在已经有许多作品而这是最后了,虽然有过很多次(引退宣言),具体都忘了,但今次是真的的感觉。我自己从《风之谷》开始到今年也已经30年了。这期间发生了许多事情,也说过很多再也没办法做下去了的话,30年来我始终有摇摆得很厉害的紧张的弦。我很安心,而先生很辛苦。不过,接下来的《辉夜姬物语》是必须去做,所以又一次绞尽脑汁中。时机的话,考虑着何时跟大家说明比较好,但首先是工作室的一员,所以8月5日告诉了大家。想在《起风了》告一段落之后再发表,这就到了9月初。


Q:吉卜力美术馆是观光胜地。引退后如果有时间会计划和海外粉丝交流吗?


宫崎骏:这涉及到吉卜力美术馆的展览。说不定我可能会变成志愿者提供自己的展览品,请一定来美术馆看看,谢谢大家。


Q:有什么引退的美学吗?


铃木敏夫:虽说有预感《起风了》可能会成为最后的作品,还是觉得他的性格而言会一直继续创作下去。至死方休。另一方面,又是一个想做做看别的事情,就把自己的决定告诉大家的人。或许会宣称这将成为最后,想着到底会是哪一种。《起风了》完成,说出了引退的话,早有预感所以也就坦率接受了。


宫崎骏:疯狂地做电影到死可就没有引退一说了。变成电影吗?价值吗?结果都压力很大。


Q:有什么记忆深刻的作品吗?有意识地加入的讯息是?


宫崎骏:印象最深的是《哈尔的移动城堡》。那是游戏的世界。当做电视剧一样地搏斗。一开始想错了,但毕竟是自己订立的方案所以没办法了。我赋予作品中世界的东西,受到很多儿童文学作品的影响,始终必须以向孩子们传达“生存在这个世界是值得的”这样的讯息,这一点至今未变。


Q:还有短篇动画和美术馆,会参与其中吗?还有吉卜力的未来?


宫崎:我是自由的,做与不做都是自由,从以前就是去做想做的,但并不是动画。


铃木:我在《辉夜姬物语》之后,在考虑明年的企划。我在考虑65岁的我能多大程度参与这些问题,不过今后吉卜力的问题,是现在在吉卜力的人们的问题,我认为这取决于他们。


宫崎:重担总算卸下了,也希望有人能传达给铃木先生“这种事让我来做”的想法。如果我们三四十岁能做到的话,我们什么都愿意做。我认为他们也有,铃木先生不会给人闭门羹,我想着跟这取决于个人的热情和希望。


Q:今后具体想做些什么?采取不同形式向国外发表信息吗?


宫崎:有想做的事,但如果做不了就丢脸了,所以不想说出来。我不想做文化人,只是个小镇工厂的老爷爷,不会考虑发表信息之类的,我不是文化人。


Q:我看过导演对地震灾害以及核爆的发言,这对您最新作的影响是什么?


宫崎:并没有给《起风了》带来影响,我好想在哪里说过,只是想做被时代追赶、超越的电影。


Q:商业的成功和艺术的评价两方能兼顾吧?


铃木:说起来像在辩解,不过我们尽量不去考虑这件事,如果真考虑了,那就连眼前的工作都没法做了。从《风之谷》开始已经走过了30年,没有回头去看过去的作品,我想这样我才能一直从事这个职业,而且也不会考虑作品会带来何种影响。


宫崎:我也根本没有考虑,觉得到达盈利分歧点就觉得很好了。


Q:作为导演的艰难和好的事情。


宫崎:辛苦的当然就是日程安排吧,从来没有制作过在结束前能清楚结果的作品,每次从来都是制作无法预料今后的内容实在很辛苦。到最后才让人看透的作品我认为不做也好,设立企划,做剧本,我们画的分割图都要赶上月刊杂志了,也不知道工作人员能坚持到哪一步,只是去做,非常辛苦。用两年时间来考虑这些事对我自己是有意义的,看着画面做做修改,可以加深理解,但它并不有助于生产率,很辛苦。虽然每天都是做这种没精打采的事,但这就是我的工作。作为导演没什么好事,不过能成为动画制作者很好,可以因为好的画面幸福两三天。导演还要等待最后的判决,这对胃不好,我希望能做动画人到最后,我想这是适合我的职业。


Q:您看起来很瘦,健康状态怎么样?


宫崎:我现在体重是63.2公斤,其实50年前是57公斤,超过60公斤是从结婚开始的,有段时间还超过了70公斤,那时候觉得自己像猪一样,很辛苦。要做电影也要调整身体,所以我不出去吃饭,只是吃早饭,中午吃便当,晚上只吃菜,也不觉得怎样。所以我想这要多谢我夫人,我想最后变成57公斤死去就好了。健康方面有很多问题,不过已经有人很为我担心了,也会约束我,按照一定的方法去治理,总会好起来吧。做一部电影就会身心疲惫。


Q:关于宪法发表言论的理由是什么?


宫崎:只是接受《热风》(吉卜力的杂志)采访时坦率地说了自己的想法。也不想特别订正此事,要是有人说是否要持续发表,因为不是文化人也只想控制在这个范围内。铃木制作人因为谈论宪法一事已经受到威胁,说不定坐电车会发生危险,也不能装作不知道,高田导演也谈过此事,


Q:夫人怎么说呢?


宫崎:已经跟内人说了退休的事,说不用再做便当,她哼了一声,常年来每天都做便当的人说不需要了,应该说拜托吧。把我改造成一个不在外吃饭的人,去拉面店会都感到吃惊吧。


Q:《起风了》制作时间用了五年,除了年龄以外有创作上的试行错误吗?


宫崎:以前也有间隔一年制作作品的时候,《风之谷》、《龙猫》、《天空之城》和《魔女宅急便》等都是那时的创意,之后再做什么就很花时间去思考。最初的《鲁邦三世:卡里奥斯特罗城》用了四个半月来做,但是《起风了》坐在桌前七小时就是界限了,协商对我来说不是工作,对着桌子画画才是工作,这个花费了很多的时间。结果就是放下铅笔就一下子回来了,放弃了回到原点,我已经到了极限,再这样下去根本不行。虽然花了五年时间,决定方针和工作人员也用了这五年时间。这以后如何生存,就像现在日本的问题,就像之前来访的青年说的,《起风了》是最后一部电影,今后有什么在等着我害怕去想。我想就是这部电影被当做今天的电影接受这件事吧。


最后一句话:


宫崎:我没想到有这么多人来参加,这么长时间承蒙大家关照,我想这样的事情不会再有了。(布布)


附原文


主な一問一答(敬称略)


Q:子供たちにかける言葉があれば。


宮崎 何かの機会があったら、私たちの映画を見たら伝わるかもしれない。


Q:引退ということでいいのか。今後やりたいことは。


宮崎 “僕は自由です”と(引退の辞に)書いたから、やらない自由もある。車が運転できる限りは毎日アトリエに行って、やりたくなったことはやろうと思います。ただ、ここで約束すると破ると思うので、言わない。ご理解ください。


Q:ナウシカの続編を作る予定は。


宮崎 それはありません。


Q:韓国のファンに一言。


宮崎 映画を見ていただければ分かると思っていますので、いろいろな言葉に邪魔されないで今度の映画も見ていただければと思います。いろいろな国の方々に見ていただくことはありがたいと思います。“風立ちぬ”は日本の軍国主義が破滅に向かっているところを描いているので、いろいろな疑問が出ましたが、それにどう答えるかということで映画を作りました。映画を見ていただれければ分かると思いますので、ぜひお金を払って映画を見てほしい。


Q:今後、ジブリの映画に関与は。


宮崎:ありません。


Q:今回と今までの引退宣言と何が違うのか。


宮崎 “風立ちぬ”は“ポニョ”から5年かかった。その間、シナリオを書いたり、漫画を描いたり、ジブリ美術館の短編映画をやったりしているが、5年かかる。次の作品を考え始めると、5年じゃ済まないでしょう。そうすると次は6年か7年か、あと3カ月もすれば73歳ですから、7年かかると80歳。この前お会いした(作家の)半藤一利さんとお話しして、その方は83歳ですが、背筋が伸びてはっきりして、いい先輩がいる。あと10年は仕事は続けますが、いままでの延長上にはないと思います。私の長編アニメーションの時代は終わったんだ、作りたいと思っても“年寄りの迷いだ”と思っています。


Q:引退を決めたタイミングは。


宮崎 鈴木さんに“もうだめだ”と言ったら、“そうですか”と言われたことはある。ジブリを立ち上げた時、こんなに長く続けるつもりがなかったのは確かで、何度も辞めようとか、やってましたので…。今回は本当に“次は7年かかるかもしれない”ということにリアリティーを感じたんだと思います。


鈴木 僕も正確には覚えていませんが、“風立ちぬ”の初号試写が6月にあって、宮崎さんからそういうことがあって、確かにこれまでもいろいろな作品でこれが最後と、いろいろあったが、具体的には忘れましたが、今回は本気だと感じた。僕自身が“風の谷のナウシカ”から始めると今年が30年目。その間いろいろあったけど、これ以上やるのはだめだとかいろいろな話があったけど、僕も30年間、緊張の糸があったのが、すこし揺れた。少しほっとするところがあった。ご苦労様ですという気持ちがわいた。ただ、引き続き“かぐや姫の物語 ”をやらないといけないので、もういちど引き絞ってやっている最中。タイミングは、いつ皆さんに説明しようか考えたけど、まずはスタジオで働くスタッフだと思っていて、8月5日にみんなに伝えました。“風立ちぬ”が一段落した時期にみなさんに発表できると思ったけど、それで9月の頭に。


Q:ジブリ美術館は観光名所。また、引退後は時間があるので海外のファンと交流する予定は。


宮崎 いえあのジブリ美術館の展示は関わらせていただきたい。ボランティアになるかもしれないが、自分も展示品になっちゃうかもしれないので、ぜひ美術館にお越しいただいたほうがありがたい。


Q:引き際について美学があったのか。


鈴木 “風立ちぬ”で最後になるかもしれない予感はあったのかということだが、彼の性格として、ずっと作り続けると思っていた。死んでしまう間際まで。一方で、別のことをやろうというときに自分で決めてみんなに宣言する人。もしかしたらこれを最後に宣言して取りかかる、どっちかだと思っていた。“風立ちぬ”が完成し、引退の話が出て、予想に入っていたので素直に受け止められた。


宮崎 映画作るのに死にものぐるいでそれ(引き際)どころではなかった。映画になるのか、値するのか、のほうが重圧でした。


Q:思い出のある作品があれば。メッセージを入れようという意識は。


宮崎:一番、とげのように残っているのは“ハウルの動く城”。ゲームの世界なんです。それをドラマにしようとして、格闘しました。スタートが間違っていたと思いますが、自分が立てた企画だからしょうがない。僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入ったので、基本的に子供たちに“この世は生きるに値する”ということを伝えることを根幹にしなければいけないと思っていて、それは今も変わっていません。


Q:短編アニメーションも美術館にある。それに関わるのか。またジブリの今後は。


宮崎 僕は自由で、やってもやらなくても自由。前からやりたかったことをやろうかと。それはアニメーションじゃありません。


鈴木 僕は“かぐや姫”の後、来年の企画にかかわっている。僕は65歳でどこまで関わるか問題はあると思いますが、今後のジブリの問題は、いまジブリにいる人の問題。その人たちによって決まると思う。


宮崎 やっと重しが無くなるから“こういうことをやらせろ”ということが鈴木さんに届くことを願っている。僕らは30歳でも40歳でもやれるなら、なんでもやりたいとやってきた。それを持っているかだと思う。それを門前払いする人ではない。鈴木さんは。意欲や希望にかかっていると思う。


Q:今後具体的にどんなことをやりたいのか。違う形で海外への発信は。


宮崎 やりたいことがあるけどやれなかったらみっともないので言いません。僕は文化人になりたくなくて、町工場のおやじなので発信しようとか考えない。文化人ではありません。


Q:監督が震災や原発について発言しているのを拝見しているが、それが最新作に与えた影響は。


宮崎 “風立ちぬ”の企画は影響されていません。どこかで話しましたが、時代に追いつかれて、追い抜かれたと映画を作りながら思いました。


Q:商業的成功と芸術的な評価が両立したが。


鈴木 言い訳かもしれないが、そういうことを考えないようにしている。そういうふうにしていると目の前の仕事ができなくなる。“ナウシカ”から関わったが、そこから30年間走り続けてきて、同時に過去の作品は振り返らなかった。それが現役を続けることだと思っていた。なおかつ作品がどういう影響を与えたのか考えないようにしてきました。


宮崎 まったく僕も考えていませんでした。採算分岐点についたら“よかった”で終わりです。


Q:監督になってつらかったこと、良かったことは。


宮崎 つらかったのは本当にスケジュールでつらかった。終わりまで分かっている作品は作ったことがない。見通しのないまま作っていくので毎回ものすごくつらかった。最後まで見通せる作品はしなくてもいいと思って、企画を立てたり、シナリオを書いたりした。絵コンテは月刊誌ほど書いた。スタッフはどこにたどりつくかわからずやっている。そういうことがしんどかった。2年とかの間にそういうことを考えることが自分には意味があった。カットを見ていじっていくことで理解が深まるので、生産性には寄与しないが、つらい。とぼとぼとそういうことをやってくる日々だったが、そういう仕事でした。監督になって良かったことはないけど、アニメーターになって良かったことがあります。“よく描けた”とかそういうことで、2、3日は幸せになれる。監督は最後に判決を待つ。これは胃に良くない。アニメーターを最後までやっていたつもりだが、自分にあっているいい職業だと思う。


Q:痩せているように見えるが、健康状態は。


宮崎 僕は正確にはいま63.2キロ。実は50年前には57キロだった。それが60キロを超えたのは結婚してから。一時は70キロを超えた。そのころの自分をみると豚のようでつらい。映画を作るために体調を整える必要があるので外食をやめて、朝食べて、昼はお弁当、夜はおかずだけ。別にきつくない。だからこれは女房のおかげかと思う。最後57キロになって死ねるといいと思います。健康はいろいろ問題はありますが、とても心配してくれる方がいますが、よってたかってやらされていて、それに従ってやっていますから、なんとかなると思います。映画を1本つくるとよれよれになる。


Q:憲法について発信した理由は。


宮崎 (ジブリの雑誌の)“熱風”から取材を受けて思っていることを率直にしゃべった。別に訂正する気もありません。それを発信し続けるかと言われると、文化人ではないのでその範囲でやりたい。鈴木プロデューサーが中日新聞で憲法について語ったら脅迫が届いた。電車に乗るとやばいかもしれないとなった。知らん顔しているわけにいかないから高畑監督も発言して3人いると的が絞れないだろうと思い発言しました。本当に脅迫した人は捕まったらしいですけど。


Q:奥様はどんな言葉を。


宮崎 家内にはこういう引退の話をしたと言いました。お弁当はよろしくといって、“ふん”と言われましたけど。常日ごろからこの年になって毎日弁当を作っている人はいないと言われているので、“お願いします”と。というのは外食は向かない人間に改造されて、ラーメン屋にいったらしょっぱさに驚いて……。


Q:“風立ちぬ”は製作に5年かかった。年齢以外に創作の試行錯誤などあったのか。


宮崎 以前は1年間隔で作ったこともあった。“ナウシカ”“ラピュタ”“トトロ”“魔女の宅急便”はそれまでのアイデアがつまっていて出口があった。それからは何を作るのか考えなくてはいけなくなって時間がかかるようになった。それから、最初の“ルパン三世 カリオストロの城”は4カ月半で作った。でも“風立ちぬ”では机に座っていたのは7時間が限界。打ち合わせとかは僕にとっては仕事ではない。机に向かって描くことが仕事で、その時間を何時間取れるかだった。その結果、鉛筆を置いたらぱっと帰っちゃう。仕事にけりをつけるのはあきらめてやりっぱなしで帰った。それでも限界ギリギリ。これ以上続けるのは無理だと。5年かかったが、方針を決めてスタッフを決めるということもやっているが5年かかった。この後どう生きるかは、まさにいまの日本の問題で、この前訪ねてきた青年が“‘風立ちぬ’の映画の最後でその先に何が待っているのか考えると恐ろしくなった”という感想を伝えてくれた。それはこの映画を今日の映画として受け止めてくれたということだと思う。


◇最後に一言


宮崎 こんなにたくさんの方がみえると思いませんでした。長い間お世話になりました。もう二度とこういうことはないと思います。



 

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